「お金、あるところにはある」問題

子供の頃から、それこそ1980年代の豊田商事事件が起きたあたりから、私がずっと変わらずに考えているのは「お金は、あるところにはある」である。

豊田商事事件 - Wikipedia

そんなに裕福ではなかった幼少期(婉曲表現)から、貧富の差を目の当たりにした大学時代、そしていろいろな人と出会ったり存在を見聞きしたりした社会人時代まで、詐欺事件などお金がらみのニュースを見るにつけ「生活費の他に出すお金があるってすごい……」と思っていた。なんなら今も思っている。

もちろん、詐欺はだめだ。人をだましてお金を取ってはいけない。

それにしたって数百万~数千万円のお金をひょいと動かせる(イメージ)人が存在しているのだから、やっぱりお金は、あるところにはある。

翻って自分の身の上を考える。

諸事情あって親にまとまった額の仕送りを続けなければならない。10年以上、ほぼ思考停止状態で「長女である自分が仕送りをしないといけない」と思い込んだままお金を送り続けてきたけど、ふと他の世帯ではどうなっているんだろう?と気になって、調べてみたら、ちょうどそういう調査が行われていた。

この内容を見ると、自分は平均よりは多く送っているかな、という感じ。

自分の家計が破綻するほどではないけれど、今の年齢(そろそろ49歳)を考えると、自分の老後についても合わせて考え始めないといけない時期に来ているような気がする。そろそろ仕送りを減らす方向性についても検討する必要も出てくるだろう。

「お金、あるところにはある」問題と向き合わないといけないなと感じた数年前に、ちょっとずつ「資産」という考え方を身につけて、2020年に以下の記事に出会って、ちまちまと行動に移し始めた。

2020年というのは私にとってはお金の話を考え始めるタイミングだったらしく、以下の記事も併せて読んで、影響を受けている。

さらに昨年、妹が入院したという出来事があり、自分の趣味として手元にあったバイクとカメラについて「売却しなければならないのでは?」という貧困妄想に取り憑かれたことがあった。

結果として「いや、そこまでするなら公の制度を利用する方が先だ」という真っ当な考えに至り、バイクもカメラも手放さずに済んだのだが、あの時に焦って売り払う手続きを取っていたら、今頃手元から趣味のものをなくしたことについて後悔して、「お金、あるところにはある」問題から頭が離れなくなっていただろう。危ないところだった。

「お金、あるところにはある」問題は、そればかり考えていると生活が成り立たなくなるけれど、うすぼんやりと意識しておく必要がある、やっかいな話だなぁと感じている。

無駄遣いをせず、つつましく暮らし、でも使う時にはきちんと使いたい。そんな生活が「絵に描いたような理想」としてあるのに、無駄遣いはするし、ガチャポンをやって喜んでいるし、旅行だって行きたい。書店の棚に並ぶ「身の丈に合った生き方」について書いてある本を眺めては、なかなかうまいこといかないものですね、などと考えて通り過ぎる。

今生活に恐ろしく困っているわけではないけれど、「お金、あるところにはある」問題とは折り合いをつけながら、死ぬまで(あるいは認知症になるまで)付き合っていかなければならない。全くもって難儀な話である。